• 03-6869ー4694
  • info@market-interface.co.jp

月別アーカイブ 7月 2017

エンジニアの選択:フォーミュラービジネスインターネット(有)浅野社長の選択

浅野氏は現在50歳。34歳のときから独立して自分の会社を立ち上げている。今年で18年目。シニアになる随分前から独立されているのだが、独立の最初のきっかけは”ちょっとしたできごごろ”からだ。

1.7か月と3年

最初は大手ベンダの情報サービス会社に就職。汎用機の計算センターでオペレータとして毎日コンソールやテープと向き合う日々。これが一生つづくかと思って、入社早々げんなりとなったそうだ。当時はバブルのまっただなかで、「第二新卒」という言葉が生まれ、転職するのであれば早い方がいいと考え7か月で大手電機メーカに転社する。
大手電機メーカに転社したが、コンピュータの実務経験がなかったため、大学が理学部ということもあり、テレビのブラウン管の工場で製造技術者として品質管理の仕事を担うことに。Ⅹ線で分析して不良原因を調べる工程があり、大学時代の経験をもとに自分から手を上げたら担当に。集計にRDBを使ったり、基幹システムにもEthernetが導入されたり、さらに会社の情報システムの担当者が親切だったこともありシステムがものすごく面白くなっていく。やはり情報システムを担当してみたいと思うようになり、3年後再度転社。

2.念願の情報システム開発へ

次は、大手事務機器メーカの情報処理系子会社 S社。戸籍システムを開発する部門に配属され、システム開発を担うことに。1年後、戸籍の法改正に伴い、システムを刷新することに。今までオフコン、COBOLで稼働していたシステムを現状の拡張でいくのか、それともオープンに全面刷新するのか選択を迫られることに。上司たちは、まだオフコンでもいけると考えていたが、若手は、これからを考えオープンを選択。浅野氏も若手に加わることになる。毎日喧々諤々論議している中で、若手グループは営業を味方につけ、最終的にオープン化を選択。戸籍パッケージの開発に携わることになる。浅野氏は一業務機能を担当する他、ネットワーク、サーバOS、DBの設計を担当。大変だったけれどもプロジェクトを通していろんなスキルを身に着けたと語る。こうして4年ほど戸籍パッケージの開発にたずさわることになる

3.ちょっと帰省のついでが

そんなおり、奥さんが地元の放送局で情報システム要員の募集広告が出ているのを発見。しかも地元までの交通費は会社負担と出ている。ちょうど帰省のタイミング。旅費も浮くし、適当に面接受けて落ちればいいかと思い応募。そのときは、これが人生を左右する面接になるなんて思いもしなかったが・・・
当日、放送局の面接室に入るとお年を召した役員がずらりと並んでいる。まだ29歳だった浅野氏は、どうせ“落ちる予定の面接”ということで、「これからの放送局はネット対応していかないと、ただの土管になってしまいます!」と大見えをきったそうだ。当然居並ぶ役員は、この若造何言ってんだ!という感じでブスッと。ただ一人、一番端に座っている人事担当らしき若手だけ、身を乗り出してうなづきながら聞いていた。
面接が終わると、浅野さん少し残っててください、専務から話があると言われ待つことに。かなり失礼なことを話したのでお灸をされるのかしらと不安げしていると、先ほどの若手担当者が。話を聞くと、実はこの方が専務で、放送局のオーナーの息子(当時)さんだった。「話がおもしろかったので、是非うちに来ませんか?」とのお誘い。帰省のついでに受けたんですとも言えず、大見え切って思わぬ展開に。そのときは専務からは「また連絡させてもらうから」でひとまず落着。

その後、1か月待ち、2か月待っても連絡は来ず?あれ、おかしいなと思い始めたころ、専務から電話が。「ついては情報システム子会社作るからそこに来ないか」との話。ちょっと考えさせてもらいますと時間をもらうが、地元に帰りたいこともあり、29歳にして、子会社に常務として転職。放送局の情報システムの面倒を見ることになる。

4.地デジの波が会社を襲う:独立へそして東京へ

そこから5年。2001年になると放送局は、地デジ対応に莫大な投資をしないといけなくなり、関連会社をつぎつぎ圧縮することに。浅野氏がいた子会社も切り離され、そこで独立を選択。放送業界では、皆一定年齢になると独立傾向があり、自身としても特に違和感なかったとのこと。
独立して、自分の会社を興し、元の放送局の情報システムの仕事をそのまま引き継いだ。地元もインキュベーション促進としてまっさらな事務所を貸してくれ順風な立ち上がりだったが、翌年から状況が変わり始める。
地元の放送局は、人を雇い、情報システムを内製化、今まで来ていた放送局の仕事がストップすることに。会社は厳しいもんだ。色々仕事をとっていたが、地元ではあまり仕事がなかった。
仕方なく、古巣のS社の仲間を頼り仕事を受注。東京の仕事が大幅に増加したこともあり、東京に会社を移転。当時社員は2名いたが、1名は地元に残り、1名は東京へ。

5.デスマーチ体験

東京に来てからは、S社からの仕事が7割ぐらいを占める。1社に頼っているためにやはり売上に波がでてしまう。そんなころ、かつてS社に派遣で来ていた同僚が突然浅野氏の事務所に。”音楽配信のシステムの開発があるので、全面的に受託をしてくれないか”との依頼。当時S社からの売上が細り、苦しかったこともあり、後先考えず受託。これがデスマーチプロジェクトだった。ふたをあけてみると、発注者の要件も不明確、仕様も流動的。外注も機能満たせない設計しかできず、かつコストダウンのためにオフショアを使ったために、仕様変更の嵐で対応できず終わらないプロジェクトに。どうにか納品したが、まともに動かず、肉体的にも精神的にも消耗しただけで終わる。やはり困ったときにこそ相手をよく見て気をつけないといけなかったと浅野氏も振り返る。これ依頼自分で受託の元請けをしてのシステム開発は選択しなくなったそうだ。

6.サラリーマンへの復帰

現在も会社が続けられたのは、S社のおかげと話す。長年S社から運用サービスを受託してそれが会社を支えてきた。しかしながら運用受託は偽装請負の危険性があるということで、昨年派遣に切替。それにともない、会社で受託できなくなり、収入源を失う目に。子供は高校生。一番家庭としてもお金のかかる時期だ。
色々営業したが、会社の規模と合う案件がない状態がつづく。そんなころ、ある会社から業務提携しないかとの話が。LinkedInにあげた履歴書を見てアクセスしてきたようだ。「シニア人材を求めている。若い会社なのでピリットしない。会社の”かなめ”として入ってくれないか。」とのこと。相手は、人材派遣会社の子会社で、SEを社員として抱えプロジェクトに派遣している会社。そこでマネージャ役でメンバを束ねてほしいとのこと。浅野氏は、自分の会社もあり、”副業許可”を念書でもらい、この会社の管理職として入る決断をする。
ところが会社に行くなり、炎上している現場に行ってくれと。行ってみると、プロジェクトはテスト工程が大幅遅延。プロジェクトマネージャは機能してないし、ビジネスパートナーとして契約していた協力会社の社員も突然来なくなり、社員もモチベーションが最低の状況。始発で現場に行っては、終電で帰るという生活に。メンバを励まし、テストを手伝いながら1週間でプロジェクトを立て直した。同時に、このプロジェクトは課題が多いので今回以降、継続しないことを会社に報告。
「会社は、人材派遣会社がベースで、儲けることが中心。技術的にどうこうではなく、お金にならない仕事が受けないし、少しでも単金が上がるプロジェクトに入れようとする。社員もスキルが上がれば給与の高いところに行ってしまう。またどんどん人を入れ、稼働率を高く高くと動いている。やはり人には厳しくなります。見切りがはっきりしていて、この会社がなぜ儲かるのかよくわかった。ある意味”いい勉強”にはなったが、現状のモデルは長くは続かないと思っている。」と浅野氏語る。
この10年でここ数か月が一番の激動の時期だったと語る。家族からも、「お父さん、サラリーマンになっちゃったの?」と言われ、とくとくと説明する羽目になったようだ。

7.どこまでもたくましく

現在浅野氏は、人材派遣会社にも見切りをつけ、再び自分の会社のかじ取りに全力を尽くしている。会社から、当初の条件になかった働き方を要請され、キッパリ断ったそうだ。

ここまで見てくると浅野氏の人生は波乱万丈だが、何事にも入っていって、かつ”勉強”と言いながらこなしていく姿に、本当にたくましさを感じる。
浅野氏は、「会社」というものの厳しさ・冷たさを何度も味わってきている。放送局での子会社への転社、そして整理など。
でもそのたびに、次の方策にトライし続けている。これも”たくましさ”所以だろ
こうした中で、これだけ自分の会社を続けられた要因は、やはり旧職とのネットワークだろうと感ずる。今でも仕事を紹介してくれるS社の同僚は、困ったことがあればお互い第一に連絡する相手となっているそうだ。浅野氏は、「会社を退職する際は、ケンカ別れしては絶対ダメ」と説く。
「浅野氏の選択」から事業を長く継続していくためのある意味“リアルさ”を感じる。
会社を長く引っ張っていくには、どんなことにもチャレンジしながら、門戸を広く構える“図太さ”が必要なのだろう。
大変な状況を“楽”といいながら、次の策を考える。
いつまでもチャレンジを続ける浅野氏、今度、自分の事業でどんなビジネスを展開していくのか、興味がつきない。またそれを聞いてみたい。