私は60代のシステムエンジニアである。
新しいシステムを作るには新たな言語やフレームワーク、クラウド環境等を利用せざるを得ない。
システム開発ではChatGPT(無料版)を主に使っているが,
このChatGPTの能力が日々どんどん高くなってきているのを感じる。
おかげでシステム開発の生産性はかなりあがってきているのではないだろうか.
ChatGPT出始めのころは、こんなコード作ってと上げても、
誤ったコードも何回か見られ、回答を取捨選択して使っていたが、
最近は誤りがほとんど無くなり、ChatGPTを聞いて出た回答をそのまま使えるようになってきている。
当初はChatGPTの学習も1年前までの内容だとも言われたが,
最近は最新の情報もと聞くと最近の情報を検索して合わせてひっぱり出してくる。
高校生くらいの知能かなと感じながら最初は使っていたが,今では、なんでも知っている博士ぐらいになっており、今の私のシステム開発においてなくてはならない存在になってきている。
コード作成はもとより、リファクタリングもクラス設計もテスト仕様も回答が瞬時で出てきてしまうのである。
このレベルで生成AIが進化していくと、そのうちシステム作るのに
コーディングそのものの必要性が無くなるのではないかとときどき感じてしまう。
確かに今の生成AIは、質問→回答の単発のやりとりが殆どで、
どんな質問にもなんとか回答を出す。複雑な問題の場合は、
こちらが分解して順に聞いていく必要があるが、
そのうち複雑な問題をAIが分解して、生成AIが質問、
こちらが回答しながら最終回答に至るキャッチボール方式になると、
飛躍的にシステム開発能力はあがっていくだろう。
作りたい画面を絵に書いて読ませるとHTMLで作ってくれる機能もあるようである。
そのうち要件を聞いて設計、コーディング、テスト、デブロイまでをAIでやる
時代になるようにも感ずる。
実際そうしたエージェントもすでに生まれているようだ。
こうなるとエンジニアでなくてもアプリをどんどん作れる時期が来るのかも知れない
そのうちシステムエンジニアって何?という死後になる時代が訪れるのでろうか
調査によると生成AIはスキルの高い人より低い人の能力をあげていくらしい。
確かに私も新言語でのアプリ開発で、主に言語の使い方・適用方法がわからないときに活用している。
おかげで今までは修正・テスト・デバッグしながら回答にたどり着くという行為がかなり削減されている。回り道をしなくても即回答にたどり着くことが増えた。
生成AIを使ってアプリ開発してみると今後プログラマーやエンジニアの役割も変化していくのではないかと実感させられる。
今までは言語やツールを良く知っていて生産性が高いプログラマが重宝されてきたが、
AIでの開発下ではコードを自ら作る必要はなく、顧客の要件を分解して、
適切なコードをAIに生み出させるインタープリターみたいな役割に変化していくのかも知れない。
単なる”コーダ”はいらなくなっていくのかも知れない。
生成AIが今後進化して、どこまでエンジニアの役割を代替できるようになるかは、
日々進歩が激しすぎて正直わからない。
AIは仕事を奪うと言われてきたが、これもひとつ確かであろう。
おそらくエンジニアのある作業は、軽減、削減されていくだろう。
そうなるのであれば、AIをどう当てはめて、効率よくできるか、
逆に自分はどこを補ってAIのアウトプットの質を高められるのか
考えたほうがよさそうだ
まずはAIを上手く活用することだと思う。
もちろんChatGPTの回答は100点満点ではない。
誤った回答や、意図していない回答を出すこともある。
AIは質問に応じてコードを書いてくれる。
そのコードに対してテストコード書いてと言えばいくらでも書いてくれるだろう。
でも、安直にそのコードを大量に丸のみして、テストしました
なんて体で、人間がテストしたみたら上手くいかなかったときを想像すると
恐ろしくなる。上手くいかなくなったとわかればまだいいのだが・・・
大量にコードを自動で作らせることができるだけに、
諸刃の剣になる案件も出てくるだろう。
あくまでも、システムを作り・活用するのは人間、
課題やビジネスロジックを理解し、AIに指示するのは人間で、
生成AIが出した回答を評価し、適用していいかどうか、
さらに質問をつづけるかどうかの判断もあくまでも人だ。
やはりシステム開発では「どんなシステム作るべきか」を考えることが大事で、
それは経験を積んだエンジニアのみが出来るともいえる。
要件を整理し、AIにうまく指示を出せる人間が今後必要で、
「手を動かすプログラマー」から「AIを使いこなすエンジニア」
へシフトしていくのではないかと思う。
やはり経験が必要で、そこにAIの能力をプラスしていく時代になっていくのではないかと思う
参考文献 「生成AIで世界はこう変わる」 今井翔太著 SB新書
TOP画像はBingで作成しました。
浅野氏は現在50歳。34歳のときから独立して自分の会社を立ち上げている。今年で18年目。シニアになる随分前から独立されているのだが、独立の最初のきっかけは”ちょっとしたできごごろ”からだ。
最初は大手ベンダの情報サービス会社に就職。汎用機の計算センターでオペレータとして毎日コンソールやテープと向き合う日々。これが一生つづくかと思って、入社早々げんなりとなったそうだ。当時はバブルのまっただなかで、「第二新卒」という言葉が生まれ、転職するのであれば早い方がいいと考え7か月で大手電機メーカに転社する。
大手電機メーカに転社したが、コンピュータの実務経験がなかったため、大学が理学部ということもあり、テレビのブラウン管の工場で製造技術者として品質管理の仕事を担うことに。Ⅹ線で分析して不良原因を調べる工程があり、大学時代の経験をもとに自分から手を上げたら担当に。集計にRDBを使ったり、基幹システムにもEthernetが導入されたり、さらに会社の情報システムの担当者が親切だったこともありシステムがものすごく面白くなっていく。やはり情報システムを担当してみたいと思うようになり、3年後再度転社。
次は、大手事務機器メーカの情報処理系子会社 S社。戸籍システムを開発する部門に配属され、システム開発を担うことに。1年後、戸籍の法改正に伴い、システムを刷新することに。今までオフコン、COBOLで稼働していたシステムを現状の拡張でいくのか、それともオープンに全面刷新するのか選択を迫られることに。上司たちは、まだオフコンでもいけると考えていたが、若手は、これからを考えオープンを選択。浅野氏も若手に加わることになる。毎日喧々諤々論議している中で、若手グループは営業を味方につけ、最終的にオープン化を選択。戸籍パッケージの開発に携わることになる。浅野氏は一業務機能を担当する他、ネットワーク、サーバOS、DBの設計を担当。大変だったけれどもプロジェクトを通していろんなスキルを身に着けたと語る。こうして4年ほど戸籍パッケージの開発にたずさわることになる
そんなおり、奥さんが地元の放送局で情報システム要員の募集広告が出ているのを発見。しかも地元までの交通費は会社負担と出ている。ちょうど帰省のタイミング。旅費も浮くし、適当に面接受けて落ちればいいかと思い応募。そのときは、これが人生を左右する面接になるなんて思いもしなかったが・・・
当日、放送局の面接室に入るとお年を召した役員がずらりと並んでいる。まだ29歳だった浅野氏は、どうせ“落ちる予定の面接”ということで、「これからの放送局はネット対応していかないと、ただの土管になってしまいます!」と大見えをきったそうだ。当然居並ぶ役員は、この若造何言ってんだ!という感じでブスッと。ただ一人、一番端に座っている人事担当らしき若手だけ、身を乗り出してうなづきながら聞いていた。
面接が終わると、浅野さん少し残っててください、専務から話があると言われ待つことに。かなり失礼なことを話したのでお灸をされるのかしらと不安げしていると、先ほどの若手担当者が。話を聞くと、実はこの方が専務で、放送局のオーナーの息子(当時)さんだった。「話がおもしろかったので、是非うちに来ませんか?」とのお誘い。帰省のついでに受けたんですとも言えず、大見え切って思わぬ展開に。そのときは専務からは「また連絡させてもらうから」でひとまず落着。
その後、1か月待ち、2か月待っても連絡は来ず?あれ、おかしいなと思い始めたころ、専務から電話が。「ついては情報システム子会社作るからそこに来ないか」との話。ちょっと考えさせてもらいますと時間をもらうが、地元に帰りたいこともあり、29歳にして、子会社に常務として転職。放送局の情報システムの面倒を見ることになる。
そこから5年。2001年になると放送局は、地デジ対応に莫大な投資をしないといけなくなり、関連会社をつぎつぎ圧縮することに。浅野氏がいた子会社も切り離され、そこで独立を選択。放送業界では、皆一定年齢になると独立傾向があり、自身としても特に違和感なかったとのこと。
独立して、自分の会社を興し、元の放送局の情報システムの仕事をそのまま引き継いだ。地元もインキュベーション促進としてまっさらな事務所を貸してくれ順風な立ち上がりだったが、翌年から状況が変わり始める。
地元の放送局は、人を雇い、情報システムを内製化、今まで来ていた放送局の仕事がストップすることに。会社は厳しいもんだ。色々仕事をとっていたが、地元ではあまり仕事がなかった。
仕方なく、古巣のS社の仲間を頼り仕事を受注。東京の仕事が大幅に増加したこともあり、東京に会社を移転。当時社員は2名いたが、1名は地元に残り、1名は東京へ。
東京に来てからは、S社からの仕事が7割ぐらいを占める。1社に頼っているためにやはり売上に波がでてしまう。そんなころ、かつてS社に派遣で来ていた同僚が突然浅野氏の事務所に。”音楽配信のシステムの開発があるので、全面的に受託をしてくれないか”との依頼。当時S社からの売上が細り、苦しかったこともあり、後先考えず受託。これがデスマーチプロジェクトだった。ふたをあけてみると、発注者の要件も不明確、仕様も流動的。外注も機能満たせない設計しかできず、かつコストダウンのためにオフショアを使ったために、仕様変更の嵐で対応できず終わらないプロジェクトに。どうにか納品したが、まともに動かず、肉体的にも精神的にも消耗しただけで終わる。やはり困ったときにこそ相手をよく見て気をつけないといけなかったと浅野氏も振り返る。これ依頼自分で受託の元請けをしてのシステム開発は選択しなくなったそうだ。
現在も会社が続けられたのは、S社のおかげと話す。長年S社から運用サービスを受託してそれが会社を支えてきた。しかしながら運用受託は偽装請負の危険性があるということで、昨年派遣に切替。それにともない、会社で受託できなくなり、収入源を失う目に。子供は高校生。一番家庭としてもお金のかかる時期だ。
色々営業したが、会社の規模と合う案件がない状態がつづく。そんなころ、ある会社から業務提携しないかとの話が。LinkedInにあげた履歴書を見てアクセスしてきたようだ。「シニア人材を求めている。若い会社なのでピリットしない。会社の”かなめ”として入ってくれないか。」とのこと。相手は、人材派遣会社の子会社で、SEを社員として抱えプロジェクトに派遣している会社。そこでマネージャ役でメンバを束ねてほしいとのこと。浅野氏は、自分の会社もあり、”副業許可”を念書でもらい、この会社の管理職として入る決断をする。
ところが会社に行くなり、炎上している現場に行ってくれと。行ってみると、プロジェクトはテスト工程が大幅遅延。プロジェクトマネージャは機能してないし、ビジネスパートナーとして契約していた協力会社の社員も突然来なくなり、社員もモチベーションが最低の状況。始発で現場に行っては、終電で帰るという生活に。メンバを励まし、テストを手伝いながら1週間でプロジェクトを立て直した。同時に、このプロジェクトは課題が多いので今回以降、継続しないことを会社に報告。
「会社は、人材派遣会社がベースで、儲けることが中心。技術的にどうこうではなく、お金にならない仕事が受けないし、少しでも単金が上がるプロジェクトに入れようとする。社員もスキルが上がれば給与の高いところに行ってしまう。またどんどん人を入れ、稼働率を高く高くと動いている。やはり人には厳しくなります。見切りがはっきりしていて、この会社がなぜ儲かるのかよくわかった。ある意味”いい勉強”にはなったが、現状のモデルは長くは続かないと思っている。」と浅野氏語る。
この10年でここ数か月が一番の激動の時期だったと語る。家族からも、「お父さん、サラリーマンになっちゃったの?」と言われ、とくとくと説明する羽目になったようだ。
現在浅野氏は、人材派遣会社にも見切りをつけ、再び自分の会社のかじ取りに全力を尽くしている。会社から、当初の条件になかった働き方を要請され、キッパリ断ったそうだ。
ここまで見てくると浅野氏の人生は波乱万丈だが、何事にも入っていって、かつ”勉強”と言いながらこなしていく姿に、本当にたくましさを感じる。
浅野氏は、「会社」というものの厳しさ・冷たさを何度も味わってきている。放送局での子会社への転社、そして整理など。
でもそのたびに、次の方策にトライし続けている。これも”たくましさ”所以だろ
こうした中で、これだけ自分の会社を続けられた要因は、やはり旧職とのネットワークだろうと感ずる。今でも仕事を紹介してくれるS社の同僚は、困ったことがあればお互い第一に連絡する相手となっているそうだ。浅野氏は、「会社を退職する際は、ケンカ別れしては絶対ダメ」と説く。
「浅野氏の選択」から事業を長く継続していくためのある意味“リアルさ”を感じる。
会社を長く引っ張っていくには、どんなことにもチャレンジしながら、門戸を広く構える“図太さ”が必要なのだろう。
大変な状況を“楽”といいながら、次の策を考える。
いつまでもチャレンジを続ける浅野氏、今度、自分の事業でどんなビジネスを展開していくのか、興味がつきない。またそれを聞いてみたい。
1.「”勤め人”はもういいかな」
岩崎氏は現在60歳。職歴は水泳のインストラクターから始まり、スイミングクラブやボウリング場の支配人を務めてきた。独立を考えるきっかけは、7年前、会社の創業者が逝去。そこから会社が大きく変わり始める。古いものから新しいものへと、過去の経験は重視されなくなる雰囲気に。2年前に創業者の子が会社を継ぐと流れは加速。創業者とともに会社を作ってきたベテランはもとより、若手までがぽつぽつと会社を辞めていく。そんな中、岩崎氏は当時執行役員として会社の変容と辞めていく社員の間に立ちながら「”勤め人”はもういいかな」と思い始めていた。
2.ボウリングの支配人からITエンジニアへ
「”勤め人”はもういいかな」と感じていた岩崎氏。定年を迎え、躊躇せず独立起業を選んだ。仕事の内容は、ITコンサルタント・データアナリスト・システム開発。ボウリング場の支配人がなぜITコンサル?と思うが、氏の学生時代からの趣味に答えがあった。
株式会社 ファイヤーフライ 岩崎社長
大学は理工学部で物理を専攻。当時大きな汎用機を使ったコンピュータの授業があり、FORTRANやCOBOLでのプログラミングに面白さを感じ夢中に。自分でもパソコンを買い、Basicから始まり、Lisp、Pascalといったプログラミング言語やDelphiといった統合開発環境に手を出すようになっていった。
そのうち、趣味の領域を超え、自分でアプリケーションを作って会社に適用するようになる。支配人の仕事をしながら、”一人情報システム”として会社の情報システムを一手に引き受けるような立場に。会社に適用するアプリケーションを作っているうちに、それぞれ作りやすい言語を選択していき、気が付いたら様々なプログラミング言語を手掛けることになっていったという。
3.経営とITの”つなぎ”役に
そんな中、会社のシステム構築のためにベンダーから見積もりをとることに。複数の会社から見積とると、金額はなんと20万円~400万円の幅が。大手のベンダーからの見積もりが一番高かった。素人は大手に頼めば”いい”システムを安心して導入できると思ってしまうが、岩崎氏は違った。各社の仕様を確認。提案しているベンダーが以外と自分たちの事業や経営規模を考慮していないことがわかった。大手のシステムは自社にはオーバースペックで適用しにくいことに気づき、一番会社にフィットした会社を選択。無駄なコストをかけずにシステム導入を実現できた。
こうした経験から、中小企業にITをわかる人が少ないこと、ITベンダーも事業や経営には詳しくなく、経営とITの”つなぎ役”がこれから企業のIT化には不可欠だと感じた。自分であれば、経営もITもわかり、かつスイミング業界やボウリング業界の人的ネットワークもある。この業界は中小企業も多くシステム化は進んでいない。自分の経験を活かしながらITコンサルとして業界のIT化を支援できるのではないかとエンジニアの道を選択することに。
4.プログラミングへの”情熱”
現在は、水泳のインストラクター募集事業のシステム構築支援を、理事として担いながら、自らの会社の事業としてICカード勤怠管理のパッケージを切り口に、業界へのITコンサルタントを担うビジネスを立ち上げ中だ。経営者としても会員数減少に陥っていたクラブをブランディングし、会員拡大と大幅な黒字化を達成した手腕をもつ同氏、業界での、経営とITの”つなぎ”役を目指す。「中小企業の経営者も世代も替わりITへの理解も増えている。今まではコスト削減のIT活用だったが、これからは販売を伸ばすITを提案できるとコンサルタントとしての強みになるのではないか」と説く。
事業立ち上げに忙しい岩崎氏だが、プログラミングへの興味も尽きない。現在もAIの活用に向け、Pythonを覚え始めた。スキル習得に中野区で進める産業振興推進機構(ICTCO)を利用し非常に役に立っていると話す。理解できない部分があれば、ICTCOの参加企業の若手に気軽に質問しながらプログラムを作り上げているそうだ。会社名のファイヤーフライという名前も、機械学習のアルゴリズム名から名付けているという。
5.これから”選択”を迎えるシニアへ。”老害”とならないために。
岩崎氏が定年時に、再雇用ではなく独立を選択したのは、「65歳になってほうりだされても、その時から始めて大丈夫なのか。今だから、まだ出来る!」と考えて決断したそうだ。
岩崎氏は、シニアにとって健康と体力が重要と語る。もともと水泳のインストラクターだった氏は、今でも週1回は必ず泳ぐそうだ。若いうちは運動すればすぐ体に筋肉がつく。しかし年をとると運動しても効果が出るまでに数週間かかるそうだ。効果がでないなと思って運動をやめれば、代謝能力も落ち太ってくる、さらに動きにくくなるという悪循環をもたらすという。動かなくなってから、動き始めても手遅れだと。だからこそ、早めに動いてかつ継続することが重要と語る。人生の選択も同じだ。”できるうちに早めに”ということだろう。
またエンジニアは、技術の移り変わりが早い。WEB、スマホ、AIと範囲も広がってくる。シニアは会社でそれなりに経験も積み、勉強もしてきていると思うが、新しいことへの勉強も必要ではと説く。
さらに重要なのは、経験の論理化。経験を”勘”としてではなく、”論理的”に語れるようにしないと、若い世代には理解できない。理解されないと”自説をまげないただの老害”になってしまう怖れがあるのではと語る。
6.自分の人生を”選択”していくために
岩崎氏とお話をしていて、やはり”好きこそものの上手なれ”だなと感じた。プログラミングを趣味から仕事に、さらに独立の糧にと”やりたいこと”を着実に一歩一歩実現してこられている。60歳過ぎてもプログミングへの興味はつきない、若手にどんどん質問しながら新たな言語へと挑戦している。”水泳選手が一番プログラマーに向いているスポーツ選手なんです”とにこやかに語る岩崎氏の姿にITエンジニアとしての情熱を感じた。自ら実践されて来た、決断の時期の早さ、勉強の必要性、経験の”論理化”など、シニアが人生を創りあげていくために必要な要素の示唆を多く気づくことができた。
長年携わってきた、水泳業界やボウリング業界への愛着も深く、今後ネットワークを活かし、ITコンサルタントとして”経営とITのつなぎ役”としてのご活躍を期待している。
今回中野区産業振興推進機構(ICTCO)様の紹介にてインタビューを実施させて頂いた。お忙しい中インタビューにお応え頂いた岩崎様と調整頂いた千種様、つないで頂いた(株)セピアの向井様に御礼申し上げたい。